宣教のことばの愚かさ

1:18 十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です。
1:19 「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、悟りある者の悟りを消し去る」と書いてあるからです。
1:20 知恵ある者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の論客はどこにいるのですか。神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。
1:21 神の知恵により、この世は自分の知恵によって神を知ることがありませんでした。それゆえ神は、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救うことにされたのです。
1:22 ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシア人は知恵を追求します。
1:23 しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えます。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かなことですが、
1:24 ユダヤ人であってもギリシア人であっても、召された者たちにとっては、神の力、神の知恵であるキリストです。
1:25 神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。Ⅰコリント1:18~25

私たちは、少し前から公同の礼拝スタイルを一時休止し、公開又は非公開のセルや関連団体としての活動というスタイルで神様との時を持つことにチャレンジしています。
そんな中で、言葉って難しいなと感じることに直面しました。
「できるだけ・できる限り同席する」という言葉に対し、私は体調不良等の不可抗力を除いて最優先しますよ。との意味で言葉を用いました。
しかし聞いていた女性は「よっぽど暇な時でなければ基本的に同席しない」と受け取られておりました。
言葉というのは、育った環境や地域でも意味合いが違うことは知っているつもりでしたが、ここまで正反対に解釈されていると知ると、この方の前でもう10年近くも語ってきた福音は、どれだけ私が受け取り語った国語的意味の解釈で伝わったのか不安に思いました。

御言葉というものは、時代・歴史的・文化的背景の違いから、ともすると日本に住む私たちには解釈が難しかったり、誤った解釈をしてしまったりすることもあるのかもしれません。

私たちは、み言葉に接する際、自分に都合がいい解釈、単純に自分に利益享受することだけでは貴方の歩みはそう遠くないうちに行き詰まるかもしれません。

イエス様はいつも最良のお方であることは間違いありません。

たからこそ、

主が何を求めておられるのか? 
今、生されている自分が主のために貢献できるチャレンジは何か?
私を通して天の御国が実現するために、今何をすべきなのか?
そういった視点で御言葉や礼拝に臨み、生活において実践する中で、主は益々の恵みを注いでくださるのです。

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